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昨日8月15日は終戦記念日です。2021年で76回目を迎えました。
1939年に勃発した第二次世界大戦は、連合国側と、日独伊三国同盟を中心とする枢軸国側との間で戦われた人類史上最大規模の戦争です。
30か国以上、延べ1億人以上が直接戦争に関与し、軍人・民間人を合わせて数千万人が犠牲になったとされる、人類史上最も多くの死者を出した戦争となりました。
スリランカと日本のつながりというと、故ジャヤワルダナ(J.R.Jayawardane)元大統領が、1951年のサンフランシスコ講和会議にセイロン代表(当時蔵相)として出席し「憎悪は憎悪によって止むことなく、愛によって止む(hatred ceases not by hatred, but by love)」という仏陀の言葉を引用し、対日賠償請求権の放棄を明らかにするとともに、わが国を国際社会の一員として受け入れるよう訴える演説を行い、日本が国際社会復帰への道につながるひとつの象徴的出来事となったと知られています。
ジャヤワルダナ元大統領のサンフランシスコ講和会議でのエピソードとスピーチ全文については本文後半で紹介するとして、日本(当時は大日本帝国)が第二次世界大戦時にスリランカ(当時はセイロン)に対して行った攻撃について。
日本がスリランカに対して行った攻撃は「セイロン沖海戦(1942年4月5~9日)」として記録されています。これはインド洋セイロン島(スリランカ)沖で日本海軍とイギリス海軍の間で行われた戦闘の事を指します。

日本軍は4月5日にコロンボを、9日にトリンコマリーを空襲しました。
イギリスに占領されていたスリランカ(当時はセイロン)は、連合国軍が進駐したことでインド洋戦線の重要拠点の一つとなりました。特に大英帝国(イギリスとその植民地・海外領土などの総称)の最前線の基地となっていました。
記録によると、1939年には4万人以上のスリランカ人が大英帝国のために徴用され、これらの軍隊は紅海やスエズ運河を守るために中東、シンガポール、ビルマなど多くの前線にも派遣されました。
セイロン国内も、連合軍によって全土に多くの収容所が建設され、スリランカの人々が軍務に従事するようになりました。
イギリス東洋艦隊の基地局は、コロンボとトリンコマリーに移されました。
そんな背景の中、セイロン沖海戦が発生しました。
当時、ビルマ(現在のミャンマー)攻略を目指す日本軍は、ビルマ制圧作戦を進めるために海路からの軍需品の輸送を計画していました。しかし、上述のようにセイロン島には当時イギリス軍の二大基地(コロンボとトリンコマリー)があり、海路からの輸送をイギリス東洋艦隊が阻止してくる可能性があり、セイロン島の二大拠点とイギリス東洋艦隊に打撃を与える必要があるとされたのです。
日本軍よる艦隊は5隻の空母で構成されていました。
1942年に4月4日コッガラを飛び立ったカタリナ型双発飛行艇は、日本軍の機動部隊の位置を確認し、コロンボに無線で「日本艦隊発見」の電報を打った後、零戦により撃墜されてしまいました。
日本軍のコロンボ空襲は4月5日、トリンコマリー空襲は4月9日に行われました。
コロンボ空襲時、日本軍はアンゴダの精神科病院(現在の National Institute of Mental Health)を燃料タンクと間違えて爆撃したことも記録されています(後日、日本軍は誤爆をセイロン政府に謝罪しました)。
日本軍がコロンボを攻撃したとき、英国東洋艦隊の大半は別の場所にありそこには3隻の船しかありませんでした。
日本軍による攻撃で大きな被害が生じたものの、英国東洋艦隊の主力は壊滅を免れました。
この作戦の主目的はセイロン島への上陸ではなく、英国東洋艦隊と連合軍基地に打撃を与えることにあったため、日本軍によるセイロン占領には至りませんでした。
今年92歳になるB.A.Sadar氏は、第二次世界大戦に参加した数少ない現存するスリランカ人の一人です。1942年3月に18歳でセイロン陸軍医療団(CAMC)の下士官として入隊し、その日から3年11カ月間、CAMCに勤務しました。
Sadar氏はスリランカの情報メディア(Roar Media)に、4月5日のコロンボ空襲を下記のように回顧しています。
「地平線上に敵機が見えるとサイレンが鳴り響きました。私達は訓練だと思って防空壕に飛び込みました。兵舎では訓練であろうとなかろうと、サイレンが鳴ったら防空壕に入るのが基本だったからです。
防空壕に飛び込んだとき、頭上を飛行機が飛んでいるのを目撃しました。飛行機はレースコースを通り過ぎゴール・フェイスに向かっていました。
サイレンが止むと私達は防空壕から出て、惨状を目の当たりにしました」
「事態が落ち着くとコロンボ市内の負傷者を救助するよう命じられました。どこに行けばいいのか、何をすればいいのかわかりませんでした。何が起こったのか誰も知りませんでした。
私達はただ移動して遺体や負傷者を集めていました。港に着くと、何人かの死傷者がいると聞かされました。日本の艦隊に襲撃された遺体を集めて、近くの病院に運びました。これが少なくとも2日間は続きました」
スリランカには、第二次世界大戦の退役軍人による協会(the Sri Lanka Ex-Servicemen’s Association)があります。この協会では登録の退役軍人に毎月2,000ルピーの補助金を支給するほか、医療サービスなどの福祉サービスを提供し高齢化した元軍人のケアを行っています。
元軍人協会のS.R.サマラトゥンガ事務局長によると、協会が発足した1998~99年当時、第二次世界大戦の退役軍人が1,200人登録されていたといいます。戦争に従軍したスリランカ人に関する記録が著しく不足しているため、登録に漏れている人が多くいるとみられており、本来は1,200人以上の対象者がいたと言われています。
年数の経過とともに登録されている元軍人数も年々減少しており、現在では350人にしか月々の補助金が支給されていません。
日本に限らず、戦争体験者も高齢化が進んで減少しています。
【サンフランシスコ平和条約発効記念日とジャヤワルダナ元大統領】
1951年9月8日に調印された「日本との平和条約」(サンフランシスコ平和条約)は、1952年の4月28日に発効ならびに「昭和27年条約第5号」として公布され、日本の主権が回復しました。
「サンフランシスコ平和条約」の調印に先立ち、9月4日から8日にかけて、サンフランシスコにおいて全52カ国の代表が参加して講和会議が開催されました。
「サンフランシスコ講和会議」といえば、故ジャヤワルダナ元大統領をおいては語れません。
ジャヤワルダナ元大統領は、1951年のサンフランシスコ講和会議にセイロン代表(当時蔵相)として出席し「日本の掲げた理想に、独立を望むアジアの人々が共感を覚えたことを忘れないで欲しい」と述べ、また「憎悪は憎悪によって止むことなく、愛によって止む(hatred ceases not by hatred, but by love)」という仏陀の言葉を引用し、対日賠償請求権の放棄を明らかにするとともに、日本を国際社会の一員として受け入れるよう訴える演説を行いました。
この演説は、日本国内では戦後の国際社会復帰を象徴する出来事の一つとして広く知られており、現在でも日本とスリランカの友好関係を語る際にしばしば取り上げられています。
しかし、その友好関係の背景には、第二次世界大戦中にセイロン沖海戦という形で両国が敵対した歴史があったことも忘れてはならないでしょう。
戦争体験者が年々少なくなる中、こうした苦難の歴史と、その後に築かれた和解と友好の歩みの双方を後世に伝えていくことも、現在を生きる私たちの役割なのかもしれません。
このような負の記録も後世に伝えていくのは、現在を生きる私たちの役割かもしれません。






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